このお話は、お酒によって人生が変わり、
お酒を通じて人生を知った男の物語である。
第二話 「再来」
5月だというのに夏が間近にせまっているかのように暑い。そんな5月晴れ漂うある日のことであった。私の勤めるホテルのバーはいつもと変わらない雰囲気で、むしろ過ごしやすい気候のせいか皆、血色のよい顔で元気いっぱいという感じだ。そんな中、天候の良さとはうって変わって私の心はどんより雲が蔓延している。朝起きても体がだるい、働いていてもやる気がない。特に今日はいつにもまして気分が悪い。まるで5月病だ。
そして、一種の精神的な病ともいえるこの5月病の原因を作り出した張本人が、いま私の目の前にお客として再度登場した紳士である。私は以前この紳士との接客以来、全ての調子が狂った。何かこう毎日がもやもやした気分になるのだ。いわば私にとっての"病原菌"といってもいい。
それほどまでに毛嫌いしている彼が再び私の前に現れたのだ。一瞬、張りつめた緊張感がゾクゾクと私を襲った。同時に「今日こそは…!」という闘志に似た感情がふつふつと湧いてきた。
相変わらずの高そうなビジネススーツに身をくるんだその紳士は、以前にも増して無愛想で、それでいて威厳を漂わせる風貌の男だ。そして、席が空いているのにも関わらず、またも私の正面にドカッと座ったと思いきや一息つく間もなくギョロッとした目で周りを見渡している。このまま放っておきたいくらいだがそういうわけにはいかない。こちらが口を開かなければ注文さえ取ることができないほど困難な人だ。私は間を見計らって彼に問いかける。
「あの、ご注文は…?」
と、言葉を投げかけた瞬間、ピタリと彼と目が合った。実にいいタイミングだ。
紳士は眉間にめいっぱいシワを寄せながら、
「とりあえず日本酒を。…何かお薦めはあるかね?」
と低い声で私に尋ねてきた。この言葉を訊いた直後、私は前に彼が現れた時のあの苦いシチュエーションを鮮明に思い出した。そうだ、私はあのとき彼に薦めたお酒を最後まで飲んでもらえず、さらには帰り際に私のプライドを傷つけるような捨てぜりふを吐いたのだった。・・・なんだか思い出せば思い出すほど、あの時の光景と悔しさが頭の中に甦ってきた。
今回はどんなお酒を出してやろうか、ヤツにギャフンと言わせるようなお酒はないかと、私は頭の中でさまざまな戦略を練り始めた。あれこれ考えているうち、だんだんと顔が火照ってきたのが自分でも分かる。耳たぶもすっかり熱を帯びてきて次第に息遣いも荒くなってきた。
昔から私は、興奮すると冷静に物事を判断できなくなり、自分でも何を考えて何を言ってしまうかさえ分からなくなってしまう。そんな私の悪いクセが徐々に芽を出し始めた…。
紳士は、私にお薦めのお酒を問いかけたまま何も言わない。あくまでも私にお酒を選ばせるつもりである。なんとも傲慢な態度にますます腹が立った。
とっさに私はさも誇らしげに強い口調でこう言った。
「お薦めですね…ありますよ!!
漫画で『夏子の酒』という作品がありましてね!
その作中に出てきたお酒なんですが、
いま日本で一番手に入りにくいと言われている銘酒なんですよ!
ええ、『神亀 亀の翁』というんですがね、それが入りましてねぇ!!はは…」
興奮して言う私に対し、紳士は少しはにかんだ顔をして、
「じゃあ、それを頂こう。」
と、丁寧な口調で返してきた。私は「しまった!」と思った。というのも、このお酒は店長が苦労してやっと手に入れてきたもので、許可を得てからでないとお客に出せないのだ。今は店長は不在だが、勝手に出して後でバレると大変なことになる。だが、ここまで言っておきながら出さないというのは私のプライドが深く傷つくし、自身のポリシーに反する。私は感情にまかせて口走ったことを今更ながら後悔した。そして、気がつけば紳士と言い問答が始まっていた。
「どうしたのかね?」
「いえ、あるにはあるんですが…その…」
そう言うと不審そうにこちらを見つめ私に問いかける。
「…値段が高いのかね?」
「いえ、そうじゃなくて…」
さっきまでのはにかんだ顔がだんだんと豹変していく。
「…いくらでもかまわんよ。」
「はぁ…」
紳士は苛立ちからか、指先でトントンとテーブルを打ち始めた。
「じゃあ早く出してくれ。」
「はぁ…」
焦る私の頭の中はすでに冷静に物事を考えられる状態ではなかった。
指先でテーブルを叩く音はだんだんと早くなってきた。
「・・・「はぁ」じゃあ分からんじゃないか。」
「はぁ…」
紳士は眉間に数十本のシワを寄らせ鋭い眼光でこちらを見上げた。
「出すのか出さないのかーーっっ!!!」
「ドドンッ!!!」
言葉と同時に指先が握りこぶしに変わり、テーブルを打ち揺らす。
「は、はいっ! だ、出します!」
店内に響きわたるような怒声に私は驚き、思わずこう口走ってしまった。
結局、彼との言い問答に負けてしまった私はそのお酒に手をつけることになった。私ですらまだ1度しか飲んだことのないお酒。店長と常連のお客が少し飲んだだけで、一升瓶の5分の1も減っていない。そんなお酒をグラスに注いでいる私の手は、今までにない緊張感で震え始めた。紳士は私の手の動きに気づいたか気づいていないか、そしらぬふりをして注がれるグラスをじっと見ている。
私にとってはまるで天使の清水を扱うが如く一瞬だったが、彼はなみなみと注がれたグラスにいともあっさりと手をつけた。いよいよ私のプライドを賭けた戦いの火蓋が切って落とされたのだ。彼はいつものように静かにグラスを口に当てた・・・。