このお話は、お酒によって人生が変わり、
お酒を通じて人生を知った男の物語である。
第一話 「紳士現る」
「お酒に興味を持ったのはいつのことだろう…。」
私はある日ふと考えた。以前の私はお酒というと「剣菱」しか知らず、焼酎と聞くと「いいちこ」が頭に浮かぶ程度だ。そもそも、日本酒と焼酎の違いも分からなければ、原料に何を使っているのかなんて知ろうともしなかった。
そんな私がお酒に興味を持ったのは、数年前、あるお酒を飲んでからである。そのお酒は何だったのか、いったいどんな状況で飲んだのか、実のところはっきりとは覚えていないが、私のお酒に対する意識を大きく変え、その後の将来さえも変えてしったお酒であることには間違いなかった。しかし、私がなぜこのお酒を好きになれたのか、私がお酒に対し何を見いだしたのか。そのことの大切さ、重要性を今まで知ろうともしなかった。
私は今、あるホテルのバーでチーフをしている。いつものようにカクテルを吟味し、シェーカーを振り、静かにそして素早くお客に提供する。ここまでは普通のバーと変わらないだろう。しかし、ここのバーには何故かたくさんの日本酒を置いている。
ある日、一人の紳士がふらっと訪れ、不可解に回りを見渡しながら私にこう尋ねた。
「…なぜ日本酒があるのだね?」
よく聞かれる質問だ。もちろん私の台詞は決まってこう言う。
「当店では洋酒だけにこだわらず、日本酒のすばらしさもお客様に知っていただこうと思い、いくつか吟味した日本酒を置いているのです。バーに洋酒という決まりはありませんしね。」と、自信を持って説明するのだ。こう言うと「ああそうか。」とたいていのお客様は納得される。まぁそれでも結局オーダーはカクテルやウィスキーだったりするのだが。
ところが、この紳士はいつものお客と違った。
「…では、吟醸の生酒は置いているかい?」 と訊く。
大抵、日本酒を注文する方でもせいぜいありふれた銘柄か、何がオススメかを私に尋ねてくるものだが、この紳士は「銘柄」ではなく「種類」を訊いてきた。もちろん日本酒を置いていることを売りにするからには、種類もいくつかは揃えているわけで、ご指名の種類も当然置いている。ただ、その中で唯一置いてあった生酒は数ヶ月まえに開栓して以来さっぱり出ていない。私が奨めるのは大吟醸ばかりで他の種類のお酒がどうしても空かなくなってしまっているのだ。
とりあえず私はその紳士に対し、
「では、広島のお酒で『富久長』がありますが、それでよろしいですか?」
とお伺いをたてた。紳士はただうなずいていたが、そのお酒について聞いてこないところをみると、どうやら銘柄にはそれほど関心はないようだ。
私はお酒を冷酒用のグラスに注ぎ、いつものようにそっとお客様の前に置いた。紳士はグラスを持ち、鼻を近づけにおいを嗅ぎその後軽く口に注ぎ込んだ。反応が気になったが、紳士は口を開かないばかりか眉毛ひとつ動かさず、彼はそれ以降そのお酒には最後まで手をつけなかった。気になった私は紳士に対しこう言った。
「お口に召しませんでしたか?」
すると紳士は、見開いた大きな目で私を見つめ、
「日本酒を扱うならまず日本酒のことをよく知ることだ!」
と、知った風な口調で私に言い放った。
お酒に対してはそれなりのプライドを持っていた私はその言葉に無性に腹が立った。だが反論する間もなく紳士は席を蹴った。しかし、その後も私の心の葛藤はしばらくおさまらなかった。妙な悔しさ、落ち着かないイライラ感が何日か続いた。そんなある日、例の紳士が再びお店にやってきた・・・。